「その安全対策、いくらかかるんだ」。稟議を上げるたびに、こう聞かれる立場の安全担当は多いはずだ。
安全対策は、多くの場合コストの側面から評価される。設備を入れる、教育の仕組みを整える、どれも支出が先に立つ。一方で、対策をしなかった場合に何を失うのかは、普段あまり語られない。稟議書のフォーマット自体が費用欄を中心に作られていることも、この偏りを後押ししている。
この記事では、「安全はコスト」という前提を、損失回避という視点に置き換えて語る方法を整理する。断っておくと、災害1件あたりの損失額を断定的な数字で示すことはしない。確認できる推計が限られているためである。かわりに、何が失われるかという項目を具体的に挙げていく。
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「安全はコスト」と言われたときに返す言葉
「安全はコスト」という主張に対して、感情論で反論しても議論は前に進まない。効果があるかどうかも分からない対策に、なぜ予算をつけるのかという問いに、具体的に答える必要がある。
有効な返し方は、「対策をしない場合に何を失うか」を、対策の費用と並べて示すことである。対策費用は見積書があれば一目で分かるが、対策をしない場合の損失は、多くの現場で明文化されていない。この非対称が、安全対策の稟議を通しにくくしている根本の原因になっている。
損失を金額で語ろうとすると、根拠のない数字を出してしまいがちになる。信頼できる推計が見当たらない場合は、金額を断定せず、損失の中身を項目として並べたほうが、結果として説得力を持つ。
インターネット上には「労働災害1件あたりの損失は数百万円」といった数字が広く流通しているが、多くは出典をたどれない、あるいは古い調査を根拠なく引用したものである。出典の確認できない数字を経営層への説明に使うと、根拠を問われたときに答えられず、かえって信頼を損なう。数字が独り歩きしている状態を見つけたら、まずその出典を確認する姿勢が要る。
災害1件で発生する損失の項目
労働災害が1件起きたときに発生する損失は、複数の項目に分けて考えられる。
まず、被災者本人にかかる治療・休業に関する負担がある。厚生労働省の労働災害動向調査によると、令和6年の総合工事業では、死傷者1人あたりの平均労働損失日数が296.6日だった。前年の令和5年は174.2日で、1年で120日以上増えている(出典:厚生労働省「令和6年労働災害動向調査の概況」)。この日数は、被災者1人が長期間、現場の戦力から離れることを意味する。
次に、現場の運営にかかる負担がある。被災者の代わりの人員を確保する手間、原因調査にかかる時間、労働基準監督署への報告書類の作成にかかる工数などが含まれる。これらは金額に換算しにくいが、担当者の稼働時間として確実に発生する。
さらに、対外的な信用にかかる負担がある。発注者への報告、協力会社への説明、再発防止策の周知など、災害が起きたあとに必要になる対応は多岐にわたる。この部分は、企業ごと・案件ごとに事情が大きく異なるため、一律の金額で語ることは避けたほうがよい。
見落とされやすいのが、当事者以外の作業員への影響である。同じ現場で働いていた作業員は、災害の状況を目の当たりにし、しばらくは通常どおりの作業ペースに戻れないことがある。士気の低下や、作業への慎重さが過度に増すことによる工程の遅れは、統計として捉えにくいが、現場の実感としては大きい負担になる。
工事が止まる日数をどう考えるか
災害が発生すると、原因調査のために作業が一時的に止まることがある。この停止日数は、工程の遅延という形で表れる。
ここで注意したいのは、労働災害動向調査が示す「労働損失日数」は、被災者本人が働けなかった日数を表す指標であって、工事全体が止まった日数とは異なるという点である。両者を混同して「工事が296日止まった」のように語ると、事実と異なる説明になってしまう。工程への影響を語るときは、被災者の労働損失日数と、現場全体の作業停止日数を、分けて示す必要がある。
現場全体の停止日数について、確認できる一次資料の推計は限られている。ここでも、具体的な日数を断定するより、「原因調査・再発防止策の策定・関係者への説明に、一定の作業停止が伴いうる」という事実を、項目として伝えるにとどめたほうが誠実である。
工程が止まれば、後続の工事にも影響が及ぶ。1つの工種が遅れると、その後に控える別の工種の着手も後ろ倒しになり、遅れが連鎖することがある。この連鎖は現場ごとの工程表に依存するため、一般論として日数を示すことはできない。ただし、「1件の災害が、その現場だけでなく後続の工程にも波及しうる」という構造自体は、経営層に伝えておく価値がある。
指名停止・入札への影響
発注者によっては、重大な労働災害を起こした企業に対して、一定期間の指名停止や、入札参加資格の評価で不利な扱いを行う場合がある。この運用は発注者ごと・自治体ごとに基準が異なり、一律の内容を示すことはできない。
重要なのは、金額換算できる損失だけでなく、次の受注機会そのものに影響しうるという点である。1件の災害が、直接の対応費用にとどまらず、その後の事業機会にまで波及する可能性があることは、経営層に伝えるべき論点になる。
受注機会への影響は、発注者との個別の関係性にも左右される。同じ災害でも、日ごろから安全への取り組みを具体的に説明できている企業と、そうでない企業とでは、発注者側の受け止め方が変わってくる場合がある。平時から実績を記録として示せる状態にしておくことが、こうした場面での説明材料にもなる。
保険で戻らないもの
労災保険は、被災者の治療費や休業補償の一部をカバーする。しかし、保険がすべての損失を埋め合わせるわけではない。
現場の信用、協力会社との関係、被災者本人とその家族への影響は、保険の対象にならない。また、災害の発生状況によっては、労災保険率が見直され、その後の保険料負担が増える可能性もある。保険があるから対策を後回しにしてよい、という理屈は成り立たない。
被災した本人にとっても、休業補償だけでは元の生活水準を完全に補えないことが多い。長期の休業は、収入面だけでなく、復職後の配置や、本人のキャリアにも影響しうる。企業側の損失として語られがちなこのテーマは、突き詰めれば個人への影響の大きさに行き着く。稟議の場でコストの議論に終始しがちな安全対策の話を、最終的にはこの視点に立ち返らせることも、安全担当の役割の1つである。
安全に対する投資は、事後の対応費用を減らすためのものというより、事前に危険を見つけて対策する活動そのものに価値があるという考え方が、リスクアセスメントの基本にある(出典:中央労働災害防止協会「リスクアセスメントの概要」)。保険で戻らない部分こそ、事前の対策で減らすしかない領域である。
稟議に書く3行
稟議書に書く要点は、次の3行に絞り込める。
1行目は、対策の内容と費用。2行目は、対策をしなかった場合に発生しうる損失の項目(金額を断定せず、種類として列挙する)。3行目は、この対策が防ごうとしている具体的な災害の型である。
「防ごうとしている型」を具体的に書くことが、抽象的な稟議との違いになる。「安全性の向上のため」ではなく、「型枠建て起こし時の挟まれ災害を防ぐため」のように、対象を絞って書くと、経営層にも判断材料が伝わりやすい。
対象を絞ることは、対策の効果を後から確認できることにもつながる。「安全性の向上」を目的にした対策は、達成できたかどうかを判定しにくい。「特定の型の災害を防ぐ」という目的であれば、その型の災害が実際に減ったかどうかで、対策の効果を検証できる。稟議を通すためだけでなく、通ったあとに効果を説明するためにも、対象を絞った書き方が役に立つ。
費用を積み上げるときも、初期費用と継続費用を分けて示しておくと、経営層が判断しやすい。初期投資が大きくても継続費用が小さい対策と、初期は小さいが毎月の費用がかさむ対策とでは、経営としての意思決定の性質が異なる。
日々の教育記録を記名で残す仕組みそのものは、毎日のKY活動を記録に変えるで整理している。度数率・強度率という結果指標の読み方は、度数率と強度率の出し方にまとめている。
本記事は一般的な参考情報であり、法的・専門的な助言を提供するものではありません。法令の解釈・適用や個別事案への対応は、社会保険労務士等の専門家、または所轄の労働基準監督署にご確認ください。記載内容は執筆時点の情報に基づきます。
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よくある質問
Q. 災害1件あたりの損失額を、具体的な数字で示したいのですが
出典が確認できる一次資料が限られているため、本記事では金額を断定していません。金額を示す場合は、根拠となる資料の年・出典を必ず明記し、自社の実情と乖離がないか確認してください。
Q. 労働損失日数と、工事全体が止まる日数は同じですか
異なります。労働損失日数は被災者本人が働けなかった日数を表す指標です。現場全体の作業停止日数とは分けて説明する必要があります。
Q. 経営層が数字にしか反応しない場合、どうすればよいですか
金額を無理に作るのではなく、指摘事項のクローズ状況や、次に起こりうる災害の型など、金額以外の具体的な材料を積み重ねて示す方法が現実的です。